20241121

稲荷は結局4つあった。石造が2つとコンクリート造と木造、建てた時代は判明しない。木造の社は半壊し、石造の一つは全壊して転がっている。唯一残る札には平成19年、祭主〇〇とある。社の向く方向がそれぞれ異なるが、全て東の岩盤の、平場から少し登ったところ、数歩の距離をとって集合している。松澤さんが「ここが敷地の要所だね」、要所といえばこの東の岩盤が沢の水と母屋と雨屋の建つ平場を分かたっている。建物から水を遠ざけている、ここに人が住めるための要所がこの岩盤である、ここに手を加えるなかれ、ここに用心せよ、社は次に住む人へのメッセージである。坪山神主が8時半に到着する、車から降りるなり「いいところだなあ」、電話の印象とは違ってここを気に入ったみたい、野鳥(のちに鈴木さんが細かく鳥の名前を教えてくれる)の声を見あげてにこにこしている。彼が装束に着替えているあいだ、あそこ(沢)でこれ(白い瓶)に水を汲んできて。これ、は瓶子というとあとで知った。水を持っていくと坪山さんは岩盤のたもとの小さな平地に御座を敷いて拝礼の道具を設えている、岩盤の上の稲荷の集合まで10メートルくらい、今日だけの「櫃沢の遥拝所」である。4つのうち3つの社を仕舞って、1つにまとめることになった。坪山神主もそれでいいと思う、ご先祖さんが住んでいたところを簡単には壊せないよなあとなんとなく鼓舞の気を知らせる。仕舞う3つの社の前に幣束をそれぞれ立て、拝礼ののちその幣束を残す社に納める。一番手前の、石積み基壇の上に建つ、一番状態の良い石造の社である。仕舞った社は解いて、近くに埋めるといいというが岩盤の表土はせいぜい10センチくらい、それは叶わないのでそれぞれの場所にせめて整列しておいておく。

20241106

この敷地は水蒸気レベルで水没している!、松澤さんが放ったショッキングな所見である。土地の起伏や周辺の樹木立ちこみ、風の流れや陽と陰の行方、自生する草花や地面や樹木に着床したコケが松澤さんの翻訳を通じて語る。地面の建物を修繕したところで腐朽とのイタチごっこだから、まずはこの湿度を解消しないとね、松澤さんはニコニコしている。まずは敷地内を行く沢を遡上することになる、この敷地に運ばれてくる水がどこかで目詰まりしていないかをチェックするためである。前オーナーが「沢の砂利さらいしないとなあ」が繰り返していたことを思い出した、数年前の豪雨が水上から大量の山砂利を流し下ろし流路が乱れ、そこここで目詰まりして水が離散、つまり水下に流れず途中で滞留してしまう、それもこの「水没」の一因かもしれない。建築工事の前に、土木工事である。建物の修繕から、ランドスケープの微調整にスケールを展開することになる櫃沢の現場、

20241029

櫃沢の現場は28筆の土地から成り足し合わせると約20,000㎡である。ある程度の位置は地番から特定するが具体的にどこからどこなのか、寸法であたろうとすると相続者も自信がない。都市計画区域外の土地28筆のうち宅地なのは1筆であとは山林、田、畑で隣家から500mほど離れた細い沢の奥だから境界をはっきりさせる要請などこれまでになかったのだろう。敷地の境界杭などなくヒントと言えば家伝口承「敷地の際には自然自生しないような樹が植えてある」である。公図を取り寄せてみる、1枚では納まらないので2枚、3枚と繋げていく。公図だが記載された方角が正しくないことが分かり、角度を振ったりして、連続するはずの「道」や「水」を手がかりに一応のまとまりはできるものの、いくつかの部分で辻褄が合わなかったり欠損したり宙ぶらりんの筆が残る。公図の左下「作成年月日」を見ると「明治9年」とあり近代地租改正である、はあっとため息が出てこの作業でできるのはここまでかと気づいてひとまず壁に貼る。

20240927

縁側が場として使われていたシーンは記憶にないが、腰かけると南を囲う杉山が意外と高くてそれなりに風景として眺められるものになることは知っていたから先行して片付けをした、前の住人が残した家財で足の踏み場もなかったのだ。1から12のチャンネルボタンが前面についたあの家具然とした昭和のテレビがまず目につく、そういえば実家の畳の上にあった。大きく動かすのに苦労するが、それ以外は麦わら帽子や化粧台の椅子、木箱、そして4つか5つくらいの段ボールでどれも軽い。開封して順繰りに手に取ると、薬や古い小銭、保険の契約更新ハガキ、家族の写真や卒業証書などが捨てにくさで宙づりになっている。床が現れると杉板で、板どうしの隙間が光って見える。板のすぐ下は外なのだ、土台と土のあいだから床下を、光が差し照らしている、冬は隙間風で寒そうだな、

 

2024.9.24

痛みが進んでいるのは山と接近している部分がほとんどで、たぶんこの接近はオリジナルではない。屋根に山に向かって延長された痕跡があり、後に増築されたのだろうと見える。山との距離を縮めて、言い換えると建物を水気に近づけてまで増築されたスペースの動機は気になるところだったが、このスペースはこれまで立ち入ることができず未見だった、残置物で埋め付くされていたからだが、金子さんたちが清掃し、腐朽した外壁を取り除いてくれたことで見られるようになっていてまず軸組とその向こうに見えた地の岩盤と石積みが美しくて写真を撮った。このスペースは、土間のすぐ脇にあって清掃のし易い土間コンクリートになっていること、出入口になっている部分の両脇の柱に柵状の建具を建て込めるようになっていることから、馬かもしくは牛のためのスペース、農耕か運搬の用に働いた馬か牛のための厩と書いてウマヤだったのだろうか。金子さんは、牛小屋だ、と言って、軸組はそれほど痛んでないから無理に壊さず残しておいていいんじゃない、とやや期待を込めた感じで言っている。山側の足下には水止めのための鉄筋コンクリート製の擁壁が出てきた。先の家人の、山との近接性と生業の切実とのあいだで戦ってきた痕跡である。

2024.9.21

敷地の入口に車を停めてアプローチを上がっていくのだが、脇にその「名前は知らない」沢の水の動きと音があるので今日はどうかなと意識が向く。水流の様子でこの数日の天気を辿りなおすことなどしながら水を跨いでみたり、長靴だったら脚を浸してみたりする。この沢の様子を観察することは、世界というか地球というか、自分を取り巻く他者を観察する、という感覚がある。撤去した方がいいですよと脇本さんに指摘されて気になっていた傍らにあるビニールハウスは、確かに撤去するかもしくはスチールを補正して屋根を復旧するなどしないとと思う。

2024.9.16

櫃沢の現場には、砕石(おそらく櫃沢でとれたものだ、沢には同系の石がたくさん転がってある)を積んだ石垣があってその積み方、仕上がりがどこか「ヘタウマ」でそれが記憶に強くあったといつか書いた。垣があるということは、何かの理由で地面を切土して結果段差が生まれた証左だ。バックホーのない少なくとも大正期以前の石垣である、人力の切土は日曜大工を大きく超えて集落全体を巻き込んだ一大土木事業である、そこまでして切土した部分が一望できるカットがこの写真だ、敷地の構造がよく見えてくる。手前は畑だ、今は雑草地だが、ビニールハウスが連棟していた時期もあれば蒟蒻畑のときもあったし、口頭伝承では昭和60年頃より前は豚小屋をしていた時期もあった、だいたい2000㎡ある櫃沢のいわゆる生業スペースである。左石垣の上は住居スペースである。シュロを3本で組むなど庭の作法が見えて、周囲の山林とは対照的に人の手でコントロールされた庭である。中央にスロープが見える、道路から住居への、だいたい長さ150メートルのアプローチである。数年前の豪雨で長らく土を被り隠蔽していた路肩の石垣は、脇本さんが土をさらい復旧してくれた。崩落しているかと懸念していた石積は殆ど被害がなかった、2024年ヘタウマ石垣との再会がこれである。さらにその石垣の上が、また畑である。故人が管理していた事実と「マムシがいるから近寄るな」までで、なにを生産していたかは記憶にはない、だいたい500㎡くらいある。3本ある山桜も、見ない間に大きくなった。少し順を戻り、アプローチの手前下部に沢がある。山から流れ出て櫃沢に合流する中途にある沢である、名前は知らない。ミョウガが群生していて、ワサビもやっていたという口頭伝承の記憶もあるが自信はない、いずれにしても飲水できる清んだ水である。長らく野生化した茶の木で鬱蒼としていたが、ここも脇本さんが整理し、いまは足を浸して親水できる。櫃沢の現場にくると、まずこの沢の水流やその量、音を聞いて留守の間の変化を確認するのである。

2024.9.10

でも一方で都市の道も野良犬みたいなものだ、そこを行く自動車は速度超過の鉄砲玉、うかうかぼーっと歩み出るものならくッと噛まれるから適当な距離がほしい。その適当な距離を、オオジノの遥拝所では「手水舎」に引き受けてもらった。もともとあった6帖の台所を減築して残った屋根付きの半屋外空間に、身支度や荷物を捌けるようにとベンチをつくった、いまでは子どもらが行く人を眺める膝つき舞台になっているようだ。撮影のときは施主の鉢植えのビワを置いてみたのだが、地域公開の盆栽棚としても悪くない。「手水舎」は、オオジノへといく前後の世俗の禊ぎの場と見立てて、施主と呼んでいるここのニックネームだ。

2024.9.9

白泡が立っている、水が乗り上げていてコンクリート土間の踊り場も見えない。昨日の雨がなければ階段状の流路をちょろちょろと優しく流れる沢だ。敷地の南端にあるこの沢は、東の山からきて雨屋の脇にくると洗い場があり、それを過ぎると地下に潜り、6メートルくらいいってまた地上に出て「櫃沢」の沢に合流する。地下の中は深く暗くてつぶさには見えないが入り口の側面が石積みになっているから人の手でトンネル化したのだろう、トンネルの上部を行かないと母屋にはアプローチできない。この沢の名前は知らない。知らないが、この沢は決定的だ。沢を水インフラとして利用しながら、沢の水気が建物に及ばない注意深い関係がある。ここ自然とは離れたいわゆる都市では、インフラは既に社会化され道路に埋設されていて、必要なときに必要な分だけ敷地に引き入れるだけであるが、都市化されていない自然では、インフラは野良犬みたいなもので、噛まれないように注意しながら隙を見て撫でる必要がある。

2024.8.26

iPhoneのあの音で警報が鳴り目覚めた8月25日未明、窓越しに聞こえる雨の強さが大きく、怖かったことを朝思い返す。ニュースによると1時間に110mmという降雨、この雨量を「記録的短時間大雨」というのだという。バケツをひっくり返したような雨、それを凌ぐ次世代の雨である。金子さんからLineが届く、数枚の写真が添付されていてどこかの道だが、櫃沢の現場手前の沢の道で、路肩が崩落している。写真をたぐると、他にもいくつかの被害があるようだ。敷地内の小川も流路が拡幅し、際をえぐっている。写真にはないが、山際や石垣、そして母屋や雨屋に被害はないかなど気にかかる。金子さんは昨晩の大雨を心配して現場の様子を見に行ってくれたのだという。お礼を伝えて、午後自分も行って見ると返信すると、気を付けて、とくる。金子さんは小学校時代の2つか3つ上の先輩で、同じ野球部だった。気を付けて、は、あの頃と変わらない感じの先輩らしい優しさでこちらに届く。はい、わかりました、と素直に返したくなる気を付けて、だ。午後の櫃沢は、被害はおおむね金子さんの報告通りで、石垣や建築に大きな被害はないが唯一、母屋の土間に、接近する山側から水が入った痕跡がある。室内より外の地面の方が高くなっているのが原因だと思う、この部分の土砂や枯れ葉の撤去は、脇本さんにちかぢかやってもらう予定である。現場を発ち、スマホの電波が戻ってきたところで、鹿沼市の道路維持課に電話を掛ける(櫃沢の現場は圏外である)。沢の道の崩落の状況を伝えると、あの沢の先は誰も住んでいないと聞いていましたという。事情を話し、対応を要請するとすぐに見に行ってくれるという。

2024.8.23

堆積物を母屋の屋根から地上に掃き下ろす。堆積物の見た目は土や砂だが、出自は山で、落ちてきた枝葉だろう。積雪落下防止を目的としているのだろう、屋根には、清掃の足場にもなった100ミリの角鋼管が軒と平行に取り付けられていて、これが堆積物を貯め留める悪さもしている、固定部分も経年で屋根を裂孔している、この機に外してしまった方がよいだろうと金子さんと話す。雨を防ぐ頭部が滅失した煙突には、漬物バケツを被せて応急した。清掃が済み望見する。もっとも東の山林と接近する部分に目がいく。数年前の降雪で積雪倒木直撃して破壊した屋根からの雨漏りにより下部構造が崩落し、それに引っ張られ屋根も歪曲している。山林と母屋のこの接近さが、不自然な感じがして気になる。この接近は建築当初からなのか、増築されたのか、それとも山林側が崩れたり樹木が生育して母屋との距離を縮めたか、いずれにしてもこの不自然な接近を足がかりにして、改修の具体が決まっていく気がする、

2024.8.22

母屋を至近で取り囲んでいた杉を4、5本伐採した。この杉群が母屋に陰を落としその部分が湿気て土台の腐朽を進めていた。樹の断面をみた脇本さんによると年輪が15くらいだというからちょうど家主が去ったタイミングに合う。発芽したのが石垣である垂直面だったから、その後の除草を免れここまで大きくなれたのだろう。杉が去った母屋はやっと立面が視認できるようになった、屋根に15年分の土砂や木っ端が溜まっていて次はその除去が必要である。

2024.8.21

そのアプローチの路肩はかつては石積みになっていてまずよく見る丸石ではなく角の立った砕石なのと、その積まれ方が完成していないというか素人ではないが石工の手でもないだろうというヘタウマな表情があって僕にとってはこの部分がまず「櫃沢」の印象としてある。その石積みだがこの数年の豪雨によるものか上の畑から流れ来た土に覆われ、そのまま放っておかれて植物が着床生育したものだから石もほとんど見えなくなっていて、石積みそのものも無事ではないだろうという気がかりな予想があった。脇本さんにも、この石積みの覆土の除去と石積みの露見は特にリクエストした部分だ。

2024.8.20

現場に着いたのは昼過ぎだったから、半日の作業を終えた脇本さんが向こうからアプローチの坂道を降りて出迎えてくれる。アプローチと言ってもいまは草草が繁茂しとてもアプローチには見えないけれども、以前は砕石(面前の沢で採れる石だろう、この辺の石は赤茶色をしている)が敷かれた堅く頼もしい路面の記憶があるからアプローチと呼べている。半日の経過を見たくてアプローチを上ろうとすると脇本さんは、鹿がいますよ、ときてそうだここは現場であるまえに山だった。沢の対岸に鹿がいる、罠にかかって静かにしている、木にピンク色のリボンが付けてある場所、きっとあれは罠の印ですよ、とつづける。その印の先を見るといて、角が立派でその下の真っ黒なツヤのある目がこちらを見ている。

2024.8.19

荒井川沿いの本道から支流の、車をやっと一台許す細い沢道に入りそこから10分程遡上したところに唐突にある、広いのだが山全体からみたら猫の額とも言えない平地が現場である。夏場でも午後4時くらいを回ると薄暗くなるような山間ではあるが、この平地には比較的長く光が差し残る。よくこんな場所を拓いたなと来るたびに思うが、その差し残りがあれば住む場所として十分か、とも思う。この沢は櫃沢という名があると数年前の豪雨で上流から流され路肩に置いてある(捨てられている)銅製の銘板を偶然見て知り、振ってある読み仮名は「ひつざわ」とある。昔から知っている沢だが、「ひつざわ」と知ってからは「櫃沢の現場」とここを呼ぶようになって通う頻度も高じた。今日から脇本グリーンの脇本さんが櫃沢に来て、放置された10余年で野生に還り、人工物を押し包まんとする敷地内(といってもどこまでが敷地か分からない)の植物の、5日間の、造園工事のような伐採工事のような考古的発掘工事のような、工事名の判然としない作業をスタートする。

2024.7.30

開けっぱなした玄関戸から寒冷紗が行ったり来たりしているから風がよく抜けるのが見える、雑木林がすぐだから蚊が入らないかと気になりながら中を覗くと施主がダイニングテーブルで書き物をしていてその先には庭の緑が見える。こちらに気がつく施主は玄関とダイニングの続きの土間をその足ですたすたと来ながらこちらを歓迎してくれるのだがこの通貫はこの家の改修のなかでとくに時間をかけて考えた部分だ。先の庭は前回は未完だった脇本さんとつくった庭で、庭が含まると通貫より通観という体感がある、この通観は施主に加えてこの玄関の前に来訪する人らが皆体感して何か受け取るだろうか。ダイニングの向こうに緑が見えたり、風が吹いてきたり、鳥の哭き音が聞こえたりそうした感じがしたらもう十分、この家を体感しているし、交歓している。ここはオオジノの遥拝所と呼ぶのがいいなという最初の感想は、この通観で具体化したと実感した朝7時、今日は千葉さんによる撮影、

脇本グリーン(@tak__waki
千葉崇則(@takanory_chiba

 

2024.7.4

広報かぬま、2024.7号を手繰ると裏表紙に文化課、堀野さんの記事がある。「長く行方不明で昨年の調査で再発見された」第9代水戸藩主・徳川斉昭が鹿沼宿本陣の小襖に詠み残した歌に関するレポートである。この調査に、我々は建築物調査班として参加していた、確かその発見の瞬間は1階の床下に潜っていたのだが、上階から堀野さんによる発見の声が上り、皆で集合狂喜乱舞したことが思い出される。広報かぬま/2024.7の裏表紙→こちら

2024.6.19

鹿沼市銀座のCenterの竣工写真が揃いました。写真は千葉崇則さん。写真はこちらから→@designstudiowatanabe Centerは、表現者でもある田巻さん家族が運営する「模索する多目的スペース+宿泊」。昭和後半に手芸店として建てられその後会計事務所を経て数年空きビルになっていた建物を、2021年から約3年をかけて設計そして改修、Centerオープンとなりました。建築設計室わたなべの担当は神野さん、施工は大島工務店と栃東です。Center https://center-kanuma.net

2024.5.28

オオジノの遥拝所こと宇都宮市上戸祭町で進めてきた住宅が竣工しました。建築設計室わたなべの担当は神野さん、構造設計はムー建築設計の宇賀神さん、施工は有限会社栃東、そして6月から脇本グリーンの脇本さんと協力して外構工事が着工します。竣工写真はこちら→@designstudiowatanabe

2023.10.18



昨日は関東学院大での講義を経て磯子に一泊、今朝から公共建築物の修繕計画策定のための調査業務で木更津に来ている。海は直視できないが向こうを眺める人やあちらから吹く生ぬるい風、停泊する船をつうじて海が見える、夕食の寿司屋は昼間、調査先の担当者に教えてもらったおすすめの店だ。味は普通だったが、地元民情報という場当たり的な小旅行という体験が美味いんだろう。

2023.10.16



2年かもう3年ちかくになるか、物件探しの伴走からはじまったCenterの改修工事は、一期、二期、三期工事と工区を重ねてようやく最終工区、浴室の工事が完了した。予算の都合もあって解体を最小限にする、という意識は、あらわれたコンクリートや鉄骨、アルミサッシといった一見時間健忘的な材料を時間装置としてポジティブにインテリアに活かすというつくり方が選ばれ、それはリノベーションは「発掘」行為であるという体感にもつながった。簡易に更新可能な内装材とその留め方、必要な防水処置を押さえることでユニットバスに頼らずローコストに自由な浴室をつくれることも嬉しい経験だった。写真はこちら→@designstudiowatanabe Center https://center-kanuma.net

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2023.10.14

オオジノの遥拝所こと上戸祭の住宅改修、施主と現場の進捗を確認、仕上げ材の解体が済んで全体の骨組みが見えるようになっている、細かな間仕切りがなくなって光が奥まで届くようになった。道路からのメインアプローチでもある建物の北東部、もともと台所だっただいたい四畳半程度のスペースの減築はまだ未着手、ここが外部化されればさらに室内は明るくなるだろうし、施主もそう期待している様子だった。浴室の壁は2階床まで立ち上がるコンクリートブロックで大工はその解体に苦労していたが新たに土間化するキッチンの土間コンの充填砕石下地として再利用してよいとわかるとああよかった産廃の手間が省けた、これで山の木が切られずに済んだねと冗談を言っている

2023.7.11



栃木市の大正期創業の老舗料亭の一部を、地域の文化発信を担う地域拠点としての旅館に改修したプロジェクト・仲乃家をウェブサイトにアップしました。共同設計:antelope/アンテロープ一級建築士事務所 写真:千葉顕弥
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2023.7.8



群馬県前橋市における、代々この地に暮らす家族の住み継ぎプロジェクト・農家住宅の不時着/ハイブリッジプロジェクトの写真をウェブサイトにアップしました。共同設計:伊藤孝仁+渡邉貴明+吉田葵+堀江欣司+高橋卓/ハイブリッジプロジェクト 写真:新建築社 写真部
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2023.7.1


廃墟以上空き家未満の、かろうじて残る彼らの生活
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2023.6.30



以前はもう少し、足場が整っていて親水できた気がするけれども、だいぶ自然の沢に戻った感じ、ミョウガが群生している
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2023.6.29


ビニールハウスジョイントの結び目に残る、手で縛ったその跡
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2023.6.28


沢水の洗い場、往時は野菜や農道具を洗ったり、果物を冷やしたりした。
30年ちかく経ってだいぶ荒れてしまったが、人と自然の接着面としての骨格は残っている。

荒れて、と書いたが、人と自然軸で言えば、自然に戻りつつあるのだな、
再生、つまりもう少し人側に寄せ戻すことはできそうな感じである。
この洗い場は、個人的に一番具体的な記憶が残る場所である。

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