バンドが、例えば、ギターの門脇です、という自己紹介には引っかかるところがあって、
「ギターの」というのは、ギター奏者である前に人間であることとか、
もっと広く言うと父であって、もしくは息子であって、そういうもっと広い世界を引き受けている個人であることが
「ギターの」というごく限定されたコミュニティの肩書によって矮小されている感じがあるんじゃないかということは
『American Utopia』を観れば思う.
そのステージに立つ彼らだが、詳しくは知らないが専門にしている楽器はあるのだろうが
曲によって担当楽器をメンバー間でトレードしたり、楽器を手放したと思ったら次の曲ではダンサーに転じたり
コーラスに回ったりまた同時にステップを踏み行進したりする.
そこには「バンド」や「ギターの」という便宜上の肩書を超えた個人性を全身全霊に開いた表現があって
American Utopiaはそこに感動する
曲によって担当楽器をメンバー間でトレードしたり、楽器を手放したと思ったら次の曲ではダンサーに転じたり
コーラスに回ったりまた同時にステップを踏み行進したりする.
そこには「バンド」や「ギターの」という便宜上の肩書を超えた個人性を全身全霊に開いた表現があって
American Utopiaはそこに感動する
だから、これはリアルな町場の生業についても言える、
例えば、本屋をやっている藤原です、という自己紹介は確かにその通りだが
その「本屋をやっている」というのは彼が社会とかあるいはあるコミュニティの中で負っている役割を説明し切れているのか、
僕が、設計事務所をやっている渡辺です、という「設計事務所をやっている」が「設計事務所」が既に持っている
ある一定の権力に甘えていないかについては自覚的注意を持っていないといけないんだろう、