櫃沢の現場には、砕石(おそらく櫃沢でとれたものだ、沢には同系の石がたくさん転がってある)を積んだ石垣があってその積み方、仕上がりがどこか「ヘタウマ」でそれが記憶に強くあったといつか書いた。垣があるということは、何かの理由で地面を切土して結果段差が生まれた証左だ。バックホーのない少なくとも大正期以前の石垣である、人力の切土は日曜大工を大きく超えて集落全体を巻き込んだ一大土木事業である、そこまでして切土した部分が一望できるカットがこの写真だ、敷地の構造がよく見えてくる。手前は畑だ、今は雑草地だが、ビニールハウスが連棟していた時期もあれば蒟蒻畑のときもあったし、口頭伝承では昭和60年頃より前は豚小屋をしていた時期もあった、だいたい2000㎡ある櫃沢のいわゆる生業スペースである。左石垣の上は住居スペースである。シュロを3本で組むなど庭の作法が見えて、周囲の山林とは対照的に人の手でコントロールされた庭である。中央にスロープが見える、道路から住居への、だいたい長さ150メートルのアプローチである。数年前の豪雨で長らく土を被り隠蔽していた路肩の石垣は、脇本さんが土をさらい復旧してくれた。崩落しているかと懸念していた石積は殆ど被害がなかった、2024年ヘタウマ石垣との再会がこれである。さらにその石垣の上が、また畑である。故人が管理していた事実と「マムシがいるから近寄るな」までで、なにを生産していたかは記憶にはない、だいたい500㎡くらいある。3本ある山桜も、見ない間に大きくなった。少し順を戻り、アプローチの手前下部に沢がある。山から流れ出て櫃沢に合流する中途にある沢である、名前は知らない。ミョウガが群生していて、ワサビもやっていたという口頭伝承の記憶もあるが自信はない、いずれにしても飲水できる清んだ水である。長らく野生化した茶の木で鬱蒼としていたが、ここも脇本さんが整理し、いまは足を浸して親水できる。櫃沢の現場にくると、まずこの沢の水流やその量、音を聞いて留守の間の変化を確認するのである。