
「ダイアローグ」である。音がいい、字面も悪くない。最初に言ったのは村瀬さんだった、風が通った感じがした。Googleは「対話」と直訳する。「対話」は否定の余地がない、けれども身体が硬くなる。その先から来るべき成果のようなものに構えてしまう。
たとえば「ぼくとあなた」である。「あなたとあの人」でもいい。肝心なのは「と」か。対話の先にある地平はひとまず求めない。いまは、複数の人格が「ただある」現状に踏みとどまって、そのあいだに立ち上がる何か、時間、関係、構造のようなものを、待つ。その態度それ自体をダイアローグと呼ぶことにしたら、気分の芯を食った気がした。
土俵は「まちづくり」である、「コミュニティ」である、「地方創生」である。その土俵で「と」に期待される仕事はたぶん「繋ぐ」ということになるんだろう。ぼく「と」あなた、その「と」が「と」の仕事であり、kanuma commonsはその最前線である、そういう解釈は普通というか、当然だろう、繋がることの興奮もたくさん見たし、その先にいまの自分があることは否定できない。
一方で「と」が「繋ぐ」仕事を遂行すればするほど、同時に何かを取りこぼしている音がする。何かと何かが繋がることで、ときに何かが失われる、あるいは断ち切られる、そういうシーンも見る。具体例は挙げない。盛り上がる共通の話題は誰かの噂話、みたいな「繋がる」ことで「切断」に転倒、そういう霧ごもる、足元はぬかるんだ事態だ。
いったん、目的としての「繋ぐ」を放ってみる。「繋がる」手前に、何かがあると仮定してみる。その何かをジャンプしない。「と」の用法を考える。ぼく「と」あなた、ではなく「ぼくとあなた」という「と」である。「ぼく」と「あなた」を繋ぐ「と」ではなく、「ぼくがいてあなたがいる」その「と」である。ダイアローグは、その再設計の機会である。
講師は福田純一さんである。「まねきねこ先生」や鹿沼史談会を通じて、鹿沼の郷土史を掘り/積み上げてきた人である。個人的には、22歳いまから18年前に市図書館で出会った男性が福田さんである。「鹿沼があってぼくがいる」という「と」はあの日あそこにいた福田さんによるものかもしれない。「と」の再設計の先導役は、いま再び彼であってほしいと思った。
テーマは「いまとむかし」である。でもそれは「と」の用法に抽象すれば「ぼくとあなた」にも読み替えられる。郷土史(自分から遠いけど確実にあるあれの知覚)は、「と」の用法すなわち人と人がどう共にいられるかを知る町場生活の作法論でもある。ダイアローグ企画はそのような期待をおって企画される。
かぬま いまとむかしのダイアローグ
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