20241224
『日常をバラし、明日の関係を再縫合する「世間師」としての、』
宮本常一が書いた「世間師」は、いっけん保守的に運営される共同体にもいる「共同体に「外」を持ち込む」存在である。規律を乱すとか空気が読めないとか安定を揺さぶる邪魔者として忌み嫌われる一方、共同体に新しい知見やスキルを輸入し、固定化した思考を緩め流路を整えることで共同体を存続する役である。「どの村にもこのような世間師が少なからずいた。それが、村をあたらしくしていくためのささやかな方向づけをしたことはみのがせない」と宮本は書く。
「シュクバノエン」は12/21,22の二日間、鹿沼屋台のまち中央公園を中心に銀座通り周辺で執り行われた。インスタグラムを見ると鹿沼ではお馴染みの地域事業者の出店がディレクションされた「マルシェイベント」の様相。だが、2日目前半にそれはきた。銀座1丁目地内で上材木町の若衆が陣を張り、「切腹ピストルズ」が塩山御囃子会と「ぶっつけ」を交わし、隣の庭園から「銀座オペラ」の歌声が響く。彼ら同士は無関係で、むしろセオリーからすると関係してはいけない・タブーでもある。それが隣り合い、摩擦して侵犯に至る。
囲う聴衆は、見てはいけないものを見るようにヒリヒリさせられるが、しばらくすると興奮気味に最前線に参加していく。「外」の到来によって日常の安定や調和がいったんバラされるが、その切断線から浮上した「協演」に新しい意味を発見するのだ。(うわなにこれヤバ、は、経験や正しさ、確からしさなどを持って意味を見出そうとする冷静な解釈の先にある境地でもある、とあの人は言う)
この、日常の地域構造のバラしと再縫合による関係のアップデートは、まさに今宮例祭にみる「祭り」の根源である。「シュクバノエン」は自ら謳う「マルシェイベント」を超えて「祭り」だった。鹿沼のひとたちは、あの例祭でおこる非日常を通じてこの感覚を知っている。来場者数やイベントパッケージとしての出来は、「祭り」の解釈の仕方としてとても耐えられない。
鹿沼の「世間師」は日常に「外」を持ち込む。日常の主導権を、勇気をもっていったん「外」に預ける。日常と「外」の綱引きのその攻防のなかに、明日の関係のヒントを見る。
シュクバノエン